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ミルク一万年の会、東京・幡ヶ谷の酪農史を巡る 「ブラミルク」に約40人

  • 6月1日
  • 読了時間: 3分
ブラミルク@幡ヶ谷に参加した「ミルク一万年の会」メンバー
ブラミルク@幡ヶ谷に参加した「ミルク一万年の会」メンバー

 新たな乳文化の発信に向けて、酪農・乳業関係者有志が集い設立した「ミルク一万年の会」は5月23日、東京・幡ヶ谷の酪農史をたどる「ブラミルク@幡ヶ谷」を開催。酪農乳業関係者など約40人が参加した。

 講演に先立ちあいさつした前田浩史代表世話人は「大正から昭和にかけた都市化や人口集中により、皇居周辺にあった酪農場は中心部から移動していった。幡ヶ谷で三保半島出身者たちはどのように牧場を始めたのか。歴史上においてもこの地は非常にユニークな歴史を持つ」と話し、講演への期待を語った。

 エクスカーション(散策)に先立ち、東京・代々木の酪農会館で行った講演では、静岡県立大学国際関係学部の高畑幸教授、日本酪農乳業史研究会の矢澤好幸顧問、阪川牛乳店の5代目・阪川洋一さん、法政大学江戸東京研究センターの金谷匡高客員研究員、小川武三郎さんの5氏が登壇、講演後には幡ヶ谷の牧場跡を歩いて巡った。

 講演で高畑教授は、日本酪農の発展期を下支えした「三保半島出身者たち」にフォーカスを当て、アメリカ・カリフォルニア州などの酪農地帯で労働者や経営者として活躍し、戦後の日本の酪農や乳業技術の発展に影響を与えた三保半島出身者たちについて紹介した。

 高畑教授は「明治後期から大正期の東京(幡ヶ谷)における三保半島出身の酪農への参入」と題し、三保半島出身者たちがアメリカに渡り、幡ヶ谷で牧場を営むまでの変遷やその背景などを紹介した。

 はじめに高畑教授は、現時点の調査結果について①幡ヶ谷で酪農を営んだ三保出身の酪農家は少なくとも32人②渡米した人よりも三保から直接上京した人が多い③アメリカ流出の背景として地場産業の衰退や東海道線の開通などがあった④都市酪農の発展期において特に幡ヶ谷では親族や同郷のつながりで上京した人が多い⑤関東大震災や太平洋戦争などの影響で衰退した――と説明。

 渡米の背景については、半島ゆえの地形や地質で農地利用が限られ地場産業が衰退していた中で、東海道線が静岡まで開通したことで交通の利便性が改善し、仕事を求めて多くの人々が地域の外に出たと述べた。

 その結果、当時開発が盛んだったアメリカのカリフォルニア州やユタ州に多くの三保出身者たちが渡り、現地で農業労働や農業経営などに携わった。アメリカの現地では、三保出身者たちで構成される「静岡組」というグループもあったという。

 その後、日米紳士協約や新移民法などによる移民受け入れ数の縮小で渡米者は徐々に減っていき、関東大震災や太平洋戦争などで三保に引き上げる人が増加したという。

 高畑教授は「アメリカ移民の第一号が日本に帰り、友達や親戚を誘ってまたアメリカに渡るなど、連鎖的な移動も多かった。アメリカから帰ってきた人の一部が三保に戻って稼いだお金で不動産を買い、その後、距離的に近かった東京に出て、当時流行していた酪農に参入した。都心から酪農が普及していき、その後郊外化するというプロセスになる。アメリカで得たネットワークで子牛の輸入に携わった人たちもいた」と説明した。

 戦後、東京都心の人口増加などで牧場が郊外へと移っていく中で、三保半島出身者たちの多くが現在の渋谷区の西原や本村周辺に集中、「西原に関しては、地主の福田家の証言があり『明治末に静岡の松原あたりから来た人たちに牧場開くために土地を貸してほしいと言われ提供した』と、渋谷区が所有している資料に残っている」と説明したほか、昭和の初め頃までは同場所で5つの牧場(日米舎、紫牧場、羽衣舎、北辰舎、信功舎)があり、このうち信功舎は戦後の1961年頃まで同地で酪農業を続けていたと紹介した。

 (伊藤まい)

 ≪酪農経済通信/2026年6月1日付≫

 原題:ミルク一万年の会「幡ヶ谷」の歴史を巡る

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